なぜ、算数・数学が脳に必要なのか?
今朝、起きがけに音読のハーモニーが聞こえてきて、自然に目が覚めた。
音読がうまくない子どもは、自分の発した文章の間違いに気がついていない。
しかし、達者な母は、自分で読みながら息子の間違いを指摘している。
音読と聞いただけで、体中の血管が今でも閉まる思いがする。
小学校時代、3つの理由で、学校が嫌いだった。
しかし、その3つ以外では、学校のすべてが好きだった。
小学校、中学校、高校とすべての授業を1度も休んだことはなかった。
「継続は力なり!」今、思えば、38.5度の熱で、ふらふらしても
這ってでも小学校へ行った記憶がある。
今は、小学校、中学校も統廃合して閉校した。
故郷の三島郡寺泊町もなくなった。
こればかりは、平成の失策、大合併のおかげである。
少しばかり頭の働く人たちは何をやらかすか分からん。
後先を見ないのではなく、先を見る脳を鍛えたり、脳を創っていないのである。
本題に戻ろう!
3つの理由とは、音楽の楽器、国語の音読、給食の肉である。
子どもは、1つでも大嫌いなことがあると、すべて嫌いと思うのがオチである。
自分が軽い難読症でそれを克服する道を自ずと選択してきたことに
気がついたのは40歳代に入ってからである。
もっと早く、自分の脳について知りたかった!
自分の脳で苦しまなければ、何故に、脳の研究を35年以上も継続できようか?
脳の学校は、まちがいなく、Dr KATOが少年時代に出逢いたかった会社、社会システムである。
少年時代、苦手な音読を救ったのは算数である。
計算なら、ごく普通にできた。好きでも、得意でもなかった。
ごく普通にできたことが計算、ただの九九であった。
その後、普通にできた算数と普通にできない国語、この落差が
自分には、得意、不得意の差であった。
その後、普通にできる算数から、得意の数学になった。
しかし、数学が好きかというと、本当に数学が好きになったのは、
オイラーの公式を使って、脳の働きを観測する方法を発見してからである。
人の能力には、限りない可能性がある。その背後には、限りない脳の可能性が
居座っているからである。
2月16日ヤフーのトピックスで、政府の記事や隕石の記事と並んで掲載された。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130216-00000001-pfamily-soci
「算数が得意な子の脳は、どこが違うのか?」
ごく普通であれば、だれでも得意になれると思う。
それこそが、脳の可能性の神髄である。