脳死を語る前にすべきことあり「脳死の手前は何か?」
----------------脳死は脳ブームのようには軽く語れない----------------
「脳死とはなにか」について、このブログ(2009年1月19日付け)で
論じて以来、多くの方々にご質問いただきました。
今週は、多くの国民が戸惑ったのではないか?と思います。
脳死の法案の選択肢がいきなり公表され、あっという間に
法案の議決が行われた印象が残ったからではないでしょうか
医師であるわたしもその一人です。
脳死は、医師になってからもずっと念頭にあるテーマです。
脳死を取り巻く問題を議論する前に、
実は大きな壁があることを知らなければならないと思います。
その一つは、
脳死が人の死であるか?議論する以前に、
「脳死の手前は何か?」ということです。
今、法案の議論は、脳死の次が「人間の死」という議論です。
では、「脳死の手前は何か?」という議論が出てしかるべき
なのです。
ところが、2009年1月19日付けのブログにも書いたように、
脳死の手前は、「植物状態」と多くの医師も思っていたことが
どうやら覆される事実が積み重なってきているということです。
わたしも著作に書いているように、
外見上、植物状態と他人が見えても、学習できた脳機能がみつかり、
「植物状態」は、存在しないのではという考えにいたりました。
すなわち、「脳死の手前」と脳死を区別することが非常に困難だということです。
とりわけ、子どもではなおさら明確な診断が難しいことが明らかです。
医師になり最初に書いた論文は、英文誌Radiologyに1991年に
掲載された子どもと大人の脳死論文でした。
「脳死の手前は何か?」を議論することなく、
脳死が人間の死と「政治的診断」されるなら、それは、おかしい
ことではないか?思います。
二つ目の問題点は、
脳死を診断する側と脳死患者の臓器を提供する側の専門性の乖離です。
脳死を診断するのは、もちろん脳診断の専門性が高くなければなりません。
しかし、脳移植をするわけではなく、脳以外の臓器移植が目的となって
いるので、提供された臓器を使う医師は、ほぼ脳の専門家ではないという
ことになります。
脳以外の臓器専門家と、脳の専門家のズレがあります。
このずれは、優れたチーム編成だけで解消するかどうか問題が残ります。
だからこそ、脳死を「政治的診断」によって「エイ!ヤー」するほど、
脳ブームのように軽くはないと思うのです。
まだまだ、列挙すればきりがないほどの問題がありますが、
私には、脳には、生きている限り、脳としての形を保持している限り
可能性があるという事実の方が重要に思います。
本当に、
政治があなたの死を決めていいとおもいますか?
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