祖父のクリスマス
今週の社長のひとこと---------------------------------------------------------------
毎年、クリスマスが近くなると我が家もそわそわしてくる。
その理由は、祖父の誕生日と母の誕生日が近づいているからである。
祖父は、1910年(明治43年)12月25日に生まれた。
母の誕生日は、12月28日である。
クリスマスは、外来文化の象徴的な行事である。
外来事を好意的に見てしまう日本人の特徴でもある。
今日、祖父は、96歳になった。
3歳の頃から、祖父と祖母の間に挟まれ、川の字のなって寝て育った。
先日、第1回脳の学校 公開研究発表会の初日、福水道郎医師の
「生活の中の睡眠」に関する講演で、日本人の川の字寝の文化について
勉強した。
この講演を自分の生い立ちと重ね合わせて聴き入った。
面白いことに、福水医師は、この川の字寝のパターンを分析して
論文報告したのは、米国人だと紹介してくださった。
自国の文化を客観的に見る余裕のない経済大国なのか?
少し恥ずかしい気もしてきた。
祖父は、外来事がまったく好きではなかった。
例えば、巨人軍など野球に外人がなぜ入って一緒にやっているの?
おらは、好きじゃないからみない!
相撲は、いつもずっと、大好きだった。TVを毎回、食い入るようにみていた。
でも、何で外人が相撲にでてくるようになり、TVを見なくなった。
ここ数年の出来事である。
3歳から15歳まで、家を出て生活するまで、川の字に祖父と寝て、海の話、戦争の話を聞き、祖母と寝て、昔話を聞いて育った。
とりわけ、戦争の話は、繰り返し聞かされて育った。
海軍で、ミンダナオ島などを回り、終戦は、沖縄宮古島で向かえた。
宮古島はいいところで、地元の人たちも良くしてくれたが、
地元の人に出されたバッタめしだけは食べれなかったというのが口癖だった。
外来事の好きではない祖父は、孫が、旧敵国だった米国に6年間も住んでいる
事には心労があったようだ。
毎日、近くの神社におまいりに行き孫の無事を祈っていたらしい。
その私は、戦時中、日本のスパイ要請所があったとうわさされるミネソタ州ミネアポリス
のミネソタ大学で過ごした。
ミネソタ大学は、毎日7-8万人が大学に通ってくるマンモス大学である。
医学部の図書館も大きい。
日本が、お寺の鐘まで、軍需用に調達されている頃、
ミネソタ大学には、日本の当時の大学の文献、それも日本語の文献がしっかり
残っている。
ここには、余裕という大きな対戦国の状況がうかがい知れる。
12月20日の早朝、海の男としての漁師力学を背中で私に教えた祖父は、他界した。
その数時間前まで、私の眼を、30歳のような瞳できらきらと見つめて、
すがすがしいそのまなざしが忘れられない。
人間は、96歳まで生きて、あのようなすがすがしい眼で、この世を去れるものかと
考えさせられた。
祖父がまた一つ、私の「老化に挑む」ヒントをくれたのである。
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